大学受験失敗
それまでまったく勉強もせずに部活以外は遊び惚けて過ごしていたが、大学受験のため高校3年生になってから、それなりに一生懸命勉強した。
しかし、自分にも一応プライドがあって6大学などを受験したがすべて落ち、浪人が決まった。
結論から先に述べれば、一年後もまたいい大学すべてに落ち、名も無い三流大学に行くことになった。
社会人になっても、あまり卒業した大学名とか話さず、自分では恥ずかしい過去の一つになっている。
極端に頭が悪いわけではないと思うが、ちょっとへそ曲がりなのかもしれない。
まず、興味がないことを粘り強くやり続けることができない。
大学に合格するために勉強しているのだ。そのために覚えなければならない日本史の年号とか英語の単語とか覚えているのだ。
しかしちっとも楽しく思えない。
1192年「いい国つくろう鎌倉幕府」って暗記して何が楽しいのか?
完全に受験に合格する目的で勉強しているということを忘れているが、どうしてもそういう勉強をしていても頭に入らないし、途中で飽きてしまって集中できない。
誰でもそうかもしれないが、楽しいことは飯を食うのも忘れて集中できるのに、楽しくないことに粘り強く向かうことができないヤツなのだ。
とにかくオレは大学受験という取り組みには成果が出せなかった。
今でもちょっと情けないと思う過去の汚点だ。
真面目と不真面目な高校時代
高校時代は相変わらずバレーボールに夢中で、3年間ずっとバレー部で練習練習の毎日だった。(一応進学校でスポーツはあまり強くない学校だったが)
しかし勉強はほとんどせず、部活以外では不良仲間とつるんで、たばこを吸ったりスナックに行って酒呑んだり、パチンコ行ったり・・・・ 不真面目な高校生だった(笑)
学校さぼってパチンコ屋に行く。学ランをパチンコ屋の従業員室に置かしてくれた。昼には学校で食べるべき弁当をそこで食べて味噌汁まで出してくれた(笑)
なんともゆるい時代だこと・・・(笑)
今でも故平尾昌晃と畑中葉子の「カナダからの手紙」を聴くと、パチンコを打っている時のことを鮮明に思い出す。当時よくBGMに流れていたからだ。
部活は真面目、それ以外は不真面目という日々で、まったく勉強しないうちに高校3年生になってしまった。
高卒で働くのはちょっと嫌だったので、急に大学に進学したいと思うようになった。
高校3年生の夏休み(もうこの時期から勉強はじめても遅いんだけどね・・・・汗)、西船橋の図書館に毎日通った。
当時は家にはエアコンもなく、図書館の閲覧室で一日勉強するのが涼しくてよかったのだ。
オレは毎日同じクラスの野田くんと一緒に図書館に通った。誘ったわけではないが偶然同じクラスの女の子もいつも来ていた。(その子がいるのもちょっと嬉しかった)
野田くんはいつもお兄さんと一緒に来ていた。彼のお兄さんはすでに大学生だった。しかも早稲田大学の政経学部という超エリート校エリート学部!
オレは野田くんに質問した。
「なあ~、お前の兄ちゃんはすでにいい大学に入ってるのになんで毎日お前と一緒に図書館に通ってるんだ~??もう勉強しなくていいじゃん?」
彼は答えた。
「なんか政治家になりたいらしいよ。だから松下政経塾※というのに入りたいらしくて毎日勉強しているみたい」
※パナソニックの創業者である松下幸之助が1979年(昭和54年)に設立した政治塾。
「へえ~。よく知らないけどお前の兄ちゃんは政治家目指しているんだ~」
そんな会話をしたのを覚えている。
彼(お兄さん)は、図書館にある新聞すべてを端から端まで丁寧に一日中読んでいた。
それがのちの民主党政権時代、時の総理大臣になった野田佳彦さんだ~(*_*)
遊び惚けて何も将来についてなんて考えてなかったオレと違い、大学生の頃から政治家目指して弟と毎日図書館に通っていた彼が、本当に総理大臣にまでなったことが驚きと尊敬だった。
普通こういうブログなどでは個人名などは出さない主義だが、すでに有名人でもあるし、いろいろな政治家がいる中で、彼の真面目でひたむきな努力を見たオレとしては尊敬の念も含めてあえて紹介させていただいた。
結果から言うと高校3年間勉強もしないで遊んでいたオレは、大学をすべり浪人することとなったのであった・・・・(笑)
不良中学生~高校生
時代のせいにするのは少々ズルい気もするが、オレたちの中学~高校時代は男は硬派が流行った時代で、不良がカッコいいという時代だった。
もちろん真面目なガリ勉くんもいたが、多くの男子たちが不良ぶっていた時代だ。
隠れてタバコを吸ったり、夜中にこっそり家を出て友だちたちと遊びまわったり・・・
暴走族という言葉が生まれたのもこの頃だ。
中学生のとき、友だちのお兄さんが50㏄のバイクを持っていた。
HONDA CB50 JX1 いまでも車種名を鮮明に覚えている。
友だちのお兄さんが、クラッチはこうやって握って・・・とか、ギアはこうやって変えて・・・とか教えてくれ乗らせてくれた。無免許だが…(^_^;)
自転車しか乗ったことなかったのでバイクの運転はとても楽しく、すぐに虜になってしまった。16歳までは免許が取れないので、無免許で時々乗らせてもらっていた。
高校生になり16歳になるとすぐに原付の免許を取りに行き、その後自動二輪も取得するために教習所に通った。
しかしながら、両親ともバイクなど買ってくれるわけもなく、また買うことを許してくれることもないため、貸してくれる友達に頼んでときどき乗っていた。
原付ではMR50、ハスラー、ミニトレ、中型はGT380、大型はカワサキマッハ3やZ2なんか乗ったなぁ〜。大型は無免許だけど(^_^;)
ある時、人から借りたバイクで走っていたとき、エンストしてしまった。
キックを何度も何度も踏んでも、なかなかエンジンがかからない。
そこにたまたま小学校1年生で同じクラスのうんこを漏らしたIくんが通りかかり、ちょっと貸してみ~と言ってまたがり、いとも簡単にエンジンをかけてしまった。
サンキューと言ってオレはまた走って行ってしまったのだが、それが彼と会話した最後となってしまった。
彼はバイクで3人乗りし白バイに追われて、そのまま事故って帰らぬ人となってしまったのだ。3人全員が死んでしまった。
尾崎豊はオレより5歳も年下だが、彼の歌う歌詞そのものを実際に過ごしたのがオレたちの中学から高校生の時代だった。
今時つっぱりとかもう流行らないけどね・・・・・(^^;)
【番外編】 オレの愛車遍歴
2030年以降ガソリン車の製造が終了するとのこと。
一応オレが実際に購入して乗ってたクルマたちについて書いておこう。
スズキアルト。マニュアルミッション車 新車購入 色は白
はじめてのクルマは軽自動車のアルトだった。一番最低グレードのマニュアルミッション車。確か4速だったと思う。初めての愛車で大切に乗っていた。
これも最下グレードのマニュアルミッション車だった。テレビCMも人気でけっこう売れた車だった。1500㏄で小型だが、オレはスタイルのバランスがとても気に入っていた。シートがあまりにもダメで途中でレカロシートを入れて乗っていた。
日産マキシマ AT 色グレー 中古車購入
当時はまだ3ナンバーは少なく税金も年間7万円以上かかる贅沢品だった。かなり大ぶりなクルマだったが、大きなクルマが流行っていた時代だった。
乗り心地はとても柔らかくあまり好きではなかったが、中古だが一応高級車に乗っている気持ちになっていた。(実際はそれほど高級車ではないが)
メルセデスベンツ190D 2.5 AT 色紺 中古車購入
中古で150万くらいだったか?はじめてのドイツ車。2500㏄のディーゼルエンジンでリッター12㎞くらいは走った。軽油も65円とかだったから意外に貧乏でも維持できた。
しかし、やっぱり故障も多かった。購入した価格と同じくらいの維持費がかかった。
ただしボディー剛性や乗り心地、左右で大きさが異なるバックミラーなど関心することも多くドイツ車はやっぱりすごいと思わされた車だった。
特にシートは秀逸で何百キロ走っても腰が痛くならなかった。楽しいクルマだった。
この車はもう一度乗ってみたい。
ベンツが18万キロくらいになって次にデミオを新車で買ったのだが、ベンツと比べるとあまりにも差があり、けっこううすぐに買い替えてしまった。
走る車としては当然何も問題ないのだが、まったく楽しくなかったのだ。まあそれほどベンツが面白かったということだろう。
三菱ランサーセディナワゴン スポーツエディション CVT 色白 中古車
比較的新しく走行距離も少ない中古を購入した。これがオレの所有した最後のクルマとなった。
足回りはスポーツエディションでけっこう固めてあってとても気に入っていた。
エンジンを切った後もミラーを格納できるなど、日本車のきめ細かさなども好感が持てた。オレなりに名車だと思った。
やはりオレは傾奇者なのだろうか?
日本で一番人気のトヨタやホンダのクルマには乗らなかった・・・・
中学に入学(部活)
中学生になった。
小学生までは私服だったが、初めて学生服、いわゆる学ランを着て登校だ。
中学時代はとにかく部活を3年間一生懸命やっていた。
中学一年生では柔道部に入部した。
実は小学生のとき、近くの柔道場に柔道を習いに行っていた。
その流れで柔道部に入ったのだ。
中学校に柔道場はなく、体育館に畳を運んで並べて柔道をしていた。
けっこう厳しい部で、広い校庭一周うさぎ跳びとかマジでヤバかった(;^_^A
その後2年生から、友だちがバレー部で一緒にやろうと誘われ、バレー部に転部した。その後バレーの虜になり、高校3年生までずっとバレーをすることになる。
171㎝だからあまりバレーの選手としては背は高くないが、ジャンプ力は1m近くあったのでスパイカーだった。
とにかく毎日ジャンプばかりしていた(笑)
小学校時代からスポーツは得意だったが、瞬発系の短距離走が得意で、持久力系のマラソンなどはからっきしだめだった。
従ってバレーボールはオレに向いたスポーツだった。
今になって思えば、この中学から高校までやっていたバレーでオレは腰を悪くしてしまった。歳をとってからもたびたび腰痛に悩まされ病院のお世話になっている。
なんでも夢中になり、加減をしらない子供は、あまり無理なスポーツは亜流ではしない方がいい。今更遅いが・・・・(^^;)
上には上がいる
小学校6年生の時のこと。
学年で何人か足の速い人が選抜され、学校対抗の徒競走が行われた。
当然オレは選抜メンバーだ。
学校で一番とまではいかないが、少なくても5本の指に入るくらいの実力はあった。
スポーツは得意だった。
大会当日。
オレの番が来た。
5人?か6人が自分のコースのスタートラインに揃った。
よーいドン!
生まれてはじめて、その出走者中ビリになった!!
かなりショックだった。
たかだか市の小学校対抗レベルでこのざまだ。
このショックはずっと今でも覚えている。
だから、オリンピックで金メダル取る人のとんでもないすごさもわかるし、そもそもオリンピックに出場するだけでも、とんでもないことだって思う。
日本一。世界一になれる人は特別な人だ。
オレのような中途半端なやつがごまんといる中でとびぬけた人。
スポーツでも勉強でもトップはすごいと思う。
小学校6年生のとき、それを学んだ。
初恋?(笑)
小学4年生の時のこと。
クラスで一番人気の女の子がいた。
クラスのほとんどの男子がその子が好きという、独占禁止法に引っかかるレベルの大人気な女の子(笑)
もちろんオレも好きだった。
その子が、オレのことが好きだと言ったのだ。
いやーーびっくりした・・・・でも嬉しかった(笑)
女の子に好きと言われて嫌な気がする男子はいない。
オレの誕生日に大きな黒い筆箱をプレゼントしてくれた。
彼女はオレと同じもので色違いの赤の筆箱を使っていた。
オレのモテ期はこれがピークか(笑)
まあ、小学生レベルなので恋愛というほどではないが、なかなか甘酸っぱい思い出だ。
その後子供が増えすぎ、もう一つ小学校が建設され、オレはそっちに転校することになった。
彼女とは別れ別れになってしまった。
まあ、また中学で同じクラスになるのだが・・・・(^^;)
その子は今頃どこで何をしているのだろう・・・・・