人生短し
昭和35年、1960年生まれ
今年で60歳になった。
まだすぐ死ぬとは思ってないが(こればっかりはわからない・・・・)
人間だれでもいつかはこの世を去る。
人生って意外に短いものだ。
平凡な自分の人生なんて人様に語るほどの意味はないが、
ここらで自分自身の人生を振り返っておくのもいいかもしれない。
まだ記憶がしっかりしているうちに・・・・・
死んだあと、子供くらいは興味をもって見てくれるかもしれない・・・・
理想の家庭
自分が育った家庭がとても嫌いだった。
両親とも厳しく、毎日のように殴られていた。
いわゆるスパルタ教育で、自分には合わなく辛かった。
小学校から帰って来ると、毎日母親に勉強させられ、答えられないと頭をバレーボールのように何度も何度も叩かれた。父親は酒を飲んでキレると半殺しのように激しく殴った。
親父が大酒飲みだったのでオレは飲まない人になった。
寝ている時間、毎日のように両親が激しい口論をしていて耳を塞いでいた。
とても辛かった。
何か嫌だと訴えると、子供のくせに偉そうに口答えするな!親の言う事を聞いていればいいと言われ、子どもは親の私物だった。
やがて高校生にもなり、グレて両親とは口も聞かなくなった。
大学卒業と同時に5年間付き合っていた女性と結婚した。
一刻も早く家を出て、自分の理想の家庭を作りたかった。
自分は一生懸命働いて家族を養う。
奥さんは毎日奇麗な家で美味しい料理を作って帰りを待っててくれる。
子供たちは楽しそうに遊んでいる。
平凡だが慎ましく笑顔の絶えない家庭。
3人の子供にも恵まれた。
家も新築戸建てを建てることができた。
自分の親が生きている間に、ほら!これが理想の家庭っていうんだよ!と見せつけてやりたかった。
しかし………
これは自分勝手に自分が描く理想の家庭像であって、独りよがりだったようだ。
元奥さんの描いている夢や理想とは少し違った。
子供たちも幼年時代、自分が親からされたスパルタ教育の影響もあったり、悪ふざけが過ぎ辛い思いもさせてしまった。
やがて夫婦関係もギクシャクし、仲も悪くなっていった。
次男が大学を卒業した頃離婚した。
30年以上の婚姻関係が終わった。
理想の家庭
自分は失敗してしまった。
夢に描いていた理想の家庭を作る事ができなかった。
人生で一番欲しかったものだったのに叶わなかった。
63歳になった。
もう理想の家庭を作ることはできない。
その元奥さんが急性心不全で突然他界してしまった。
心からご冥福をお祈りしたい。安らかに眠ってほしい。
離婚後はオレに縛られず、幸せな人生だったと聞き良かったなぁ~と思う。
突然のことで残された子供たちの悲しみは伝えようがないほど大きい。
こんな突然、母親が亡くなってしまいショックのほどは察することができないほどだ。
しかし3人とも素晴らしい人間に成長したことを自慢に思う。元奥さんのおかげと心から感謝している。
子供からもぜひ来てほしいと声をかけてもらい、何日か一緒に過ごしたが、いろいろ悩んだ末、告別式と葬式は遠慮させていただくことにした。
人はいつまでこの世に生かされるのかわからない。
残された命、どう生きるかよく考えたい。
追加
ブログでは自分の親のことを悪者のように書いたが、二人ともすでに他界している今、まったく根に持っていない。
もちろんいい思い出だってある。
当時は行き過ぎたスパルタ教育、戸塚ヨットスクール事件など、そう言うのも教育の正論だったし、何かと一番厳しくなってしまう長男でもあるオレが、まったく言う事を聞かないヤツだったという、親からみたら育てにくい子どもだったと思う。
何でも自分で考え自分で実行したい性格で、親の言う事を素直に聞くような子ではなかった。
その反動で、自分の子どもにはほとんどレールを引かず、放任主義のようになってしまった。
何が正しく何が間違ってるのか分らないが、親というのもトライ&エラーの繰り返しだと思う。
記憶にあるニュース(15歳以降)
1976 ロッキード事件
いや~、正直そんなに詳しく知らないけど(^^;)、毎日ニュースでロッキードロッキードと騒いでいた。まあ政治家が多額の賄賂をもらったとかいう話でしょ(笑)
1979 インベーダーゲーム
これはよく覚えている。大学浪人の一年間、予備校に通いながら喫茶店でやったやった、やりまくった(笑) 当時でも一回100円って意外に高かったのかも・・・(^^;)
喫茶店のテーブルはみるみるうちにインベーダーゲーム一色となった。
ここからコンピュータゲームが始まるのだ!
1980 竹の子族
まあ、原宿に出没した奇抜なカッコとカラフルないで立ちで踊る若者たち。
オレはもうその世代ではないのでただの傍観者だったけど~(笑)
これはマジ驚いた。夏の暑い日の夕方、何気なくテレビを見ていたら、テロップが・・
レーダーから消えたということだけで、なかなか墜落しただとかの新たな情報が出ない。いらだちと不安が錯綜して固唾をのんでテレビを見守った。
現代では、何か重大な問題が潜んでいて当時の政府が隠蔽を企んだなどという噂がネット上にいっぱいある。真実はオレにはわからないが、この日のニュースであまりにも情報が出ず遅すぎたのはなにかおかしい。謎だ。
かなりの衝撃が走ったニュースだった。他人事と言えば他人事だったけど、大変なことが起こったと世界中が震撼した。チェルノブイリがウクライナであることも知らず、東ヨーロッパの旅でウクライナに行くまでロシアとばかり思っていた。
そんな原発事故がまさか日本で起こるとは当時は夢にも思っていなかった・・・
1987 国鉄民営化
懐かしい。オレたちの時代はJRではなく、国鉄と言っていた。
改札には常に駅員が、特殊なハサミみたいなものをカチャカチャリズミカルに鳴らしならが、全員の切符に穴を開けるのだ(笑) ラッシュ時間などは大変だっただろうな~
1989「ベルリンの壁」崩壊
これはニュースを見ていて覚えている。誰かが壁をよじ登って、ハンマーみたいなものでガンガンって壊していた(笑)
長く続いた共産主義と資本主義の争いは、なんとなく共産主義の崩壊で終わりが来たといったイメージを持ったっけ。
この年はルーマニアのチャウシェスク政権崩壊だとか中国の天安門事件だとか、共産主義国の話題が多かったが、中国だけは崩壊というよりこの頃から狂犬のように突き進み今日に至っている。ある意味北朝鮮と中国は世の中に逆行している国だ。
1993米不足・外国産米緊急輸入
いや~、スーパーでタイ米を買って食べたけどまずいまずい(^^;)
札束で頬っぺたひっぱたいてむりやりタイ米を買い漁ったくせに、まずいまずいとは最低な国民だ(^^;) でもその時わかったね。日本人にとってお米はすごく大切なものなんだな~って。毎日おいしい米が食べられることに感謝だね(^^)v
まずサリン事件。これはかなり大きなニュースだった。麻原彰晃はよくテレビにも出演してたので、ほとんどの国民は知っている感じの男だった。オレはこれまでもいっさいの宗教には興味がない男だから、あまりピンとこないのだが、内部殺人やらテロやらとんでもないことをしてしまう集団にもなってしまう恐ろしさを感じた。
そして西宮に住んでいた時に起こった阪神大震災。もうあれ以上の地震は二度とないことを祈るしかない。破壊力はこれまでの歴史上一番だったらしい。
震度5強とか時々あるけど、震度7ってとんでもない揺れだった。今生きていられるのも運だ。感謝しなければならない。
1997 神戸連続殺人事件/ダイアナ妃死去
神戸連続殺人事件、かなりショッキングな事件だった。犯人が子供だったこともショックだ。日本中を震撼させた恐ろしい事件だった。
ダイアナ妃は本当に絶世の美女で幸運にも頂点に上り詰めたシンデレラだったと思っていたが、いろいろな苦労もしていたんだなぁ・・・ このニュースもショックだった。
1998 和歌山毒物事件/シドニー五輪・高橋優勝
和歌山カレー毒物事件はまだ解決していない。もしかすると冤罪かもしれない。わからないが、ちょっとおかしな点も多く未解決事件じゃないかとも言われている。
シドニーに高橋尚子選手のゴールはテレビにかじりついてみていた。
すごい瞬間だった。この子は花があるな~って思ったっけ。
2001 アメリカ同時多発テロ事件
これも信じられないニュースだった。貿易センタービルにジェット機が突っ込むなんて考えられない。狂気の沙汰だ。その瞬間の映像は映画じゃないよね?って思うほどびっくりした。またその後の二棟の貿易センタービルの崩落も信じられなかった。
何かトリックがあるんじゃないかと思うほどの惨事だった。
2002 拉致被害者帰国
日本人を無理やり拉致して北朝鮮に連れていくなど、狂気の沙汰としか思えないことをされて、二度と日本の地を踏めなかった人もいる中、何人かの拉致被害者が特別便で帰国し、タラップから降りて日本の地を踏みしめ、長く会えなかった親族と抱き合う姿は本当に鮮明に覚えている。
まだまだたくさんいる拉致被害者はその後一人も帰ってきていない。
世の中には理不尽なことって多い。やるせない。
2003 フセイン元大統領拘束/米シャトル事故・落下する破片
フセイン拘束のニュースはテレビ放映され全世界に流れたが、この時期のアメリカがしていることはなんだかどっちが悪者なのかわからないと思った。
スペースシャトルの打ち上げ。
これもライブでテレビで見ていた。そのテレビの画像の中で空中で爆発し粉々になって散っていく姿も全世界に流れてしまった。大変ショッキングな事故だった。
建築における偽装工作は前からたくさんあったんじゃないか?と疑いを持っているし、今ももしかしたら、偽装工作は行われている可能性だってある。
大きな事件となり、その後建築基準法改正へとつながっていった。
施主側(お金を出す側)の要望と実際に施工する側(お金をもらう側)では、どの世界でもお金を出す側が強い。3億円はかかるビル施工に2億5000万円しか払えないなど言われたら、どこかで悪いことをせざるを得ないのもまた闇なのである。
2011 なでしこジャパン優勝
女子サッカーが世界一になった瞬間!思わず興奮してしまった。
野球は小さい頃からやっていたけど、サッカーは授業くらいなもので競技はしていないから詳しいルールや技術についてはよくわからないけど、やっぱり世界一になるっているのはすごいことだ。
もう細かいニュースもいっぱいあるが、きりがないので一旦ここで終了とする(;^_^A
長く生きていればそれだけいろいろなことを経験するものだけど、ありがたいことに自分が生きた時代は、戦争だとかもなく、基本平和な時代だった。
これを書いている時はそうでも、この先なにか大変なことがあるかもしれない…
あってほしくないが…
【番外編】 オレの愛車遍歴(バイク編)
オレの誕生日は4月。
高校に入ってすぐ原付を取りに行った。
その後中型自動二輪を取りに教習所に行った。
社会人になってから大型自動二輪もとった。
まだ免許取得前の思い出バイク
①HONDA CB50JX-1
友だちの兄貴が持っていたCB50。中学生だったがちょっと乗せてもらった。
自転車ではないエンジンで動くバイクに魅了された最初に触れたバイクだった。
原付免許取得後の思い出のバイク(すべて友だちのバイク)
お金がなくて自分のバイクは持てなかったが、よく借りて乗り回していた。
高校の先輩のMR50。90キロ以上出た。かなり早い50㏄だった。
ミニトレの愛称で親しまれた2サイクルのバイク。けっこう出足が俊敏だった。
カワサキ250SS。この後にKHという名称になる前のSS。早いバイクだった。
いわゆる38(サンパチ)の愛称で親しまれたバイク。
このバイクが一番借りて乗ったかもしれない。2サイクル3気筒。重たいバイクだが、大きいバイクに憧れていた時代だったのでとても好きだった。
ご存じℤⅡ。これは今見てもかっこいい。ゼファーの前身のようなモデルだ。残念ながらこの時代はオレは中型しか免許を持っていなかったので、無免許で乗り回していたことになるが(^^;)、一番憧れのバイクだった。
自己所有バイク
XJ400ZS。いわゆるペケジェー。400㏄4気筒。いい音だった。
団地の家の前に置いておいたら盗まれてしまった(´;ω;`)ウゥゥ
これは友だちから譲ってもらったもの。意外にかわいいバイクだった。
スズキジェベル200 もうこの時代は旅の道具としてオフロードバイクが好きになっていた頃。このジェベルはとてもタンクが大きく燃費も良く航続距離も長かった。
これも友だちから譲ってもらったバイク。
ガレージに置いていたら、どうしても売ってほしいという人が来て、熱意に負けて売ってしまった。
これも友だちからのおさがり。
しかしビックスクーターの登場は衝撃だった。これまでオフロードだとケツが痛かったりかなり疲れたりだったが、このマジェスティ―は400キロ走っても疲れない。
冬も風防のおかげでまったく寒くない。運転が楽しいバイクではないが、移動目的としては抜群だと思った。すでに中年になっていたが・・・(笑)
これも会社の友だちが要らないというので引き取ったバイクだが、これがオレのバイク人生の最後のバイクとなってしまった。
最後に東北の旅に一緒に行って廃車となってしまった。
125㏄って意外にいいものだなぁ~。また乗るとしたらこのくらいのサイズがいい。
それ以外にもまだまだ思い出のバイクはあるが、きりがないのでこの辺で終わりにしておく。
たまたま中学生の時に友だちの兄貴のCB50に乗せてもらい、バイクが好きになった人生。
今はもっぱら自転車野郎だが、バイクも楽しい乗り物だと思う。
記憶にあるニュース(14歳まで)
他にもたくさん重大なニュースがあると思うが、あくまでも自分が強烈に記憶していることだけを拾ってみた。もともと政治などに興味ないタイプであったので、え?これはないの?と言われるかもしれないが、あまりインパクトもないことは書きようがない(^^;)
1964年 東京オリンピック / 東京大坂間新幹線開通
物心ついて最初に記憶にあるのは東京オリンピック。我が家にはカラーテレビはなかったので、ご近所のお金持ちさんの家に上がり込んでご近所大勢で見た覚えがある。芝生のグリーンがカラーできれいだな~って感動した。アベベとか言うマラソン選手がいたよね?
汽車や電車が好きだった幼年時代だが、新幹線ができたこともよく覚えている。
夢の超特急ひかり号とか言ってたっけ(笑)
1968年 3億円強奪事件
8歳の時だった。ニュースで毎日大騒ぎしていた!モンタージュ写真というのがテレビで出てて今でもその顔は覚えているけど・・・・
結局時効になっちゃったね。3億円どこいった??
1969年 アポロ11号月面着陸
これも大騒ぎでみんなテレビで見ていた。
月の石っていうのが上野に展示されて見に行ったんだけど、すごい大勢が並んでいて、ほんの一瞬豆粒のような石を見ただけだった(^^;)
よど号って飛行機の名前?最近そんな言い方しないけどね~(;^_^A
日本赤軍とか言う人々が飛行機をハイジャックして北朝鮮に亡命したって事件。
はっきり言って赤軍とかよく知らなかったけどこの事件はよく覚えている。
そして同じ年に大阪で万博があった。いろいろな国ごとにパビリオンとか言う近未来的な建物があったり岡本太郎の太陽の塔とかあってとても面白そうだった。クラスの半分くらいの人が行ったみたいだけど、我が家は貧乏だから行けなかった(´;ω;`)
沖縄は戦後まだアメリカだった。だから沖縄の紙幣はドルだった。一ドル360円だった。円は360度だから360円ってかなりいい加減なレートだよねぇ(^^;)
まあ覚えているのはそれくらい。
あさま山荘事件はもっとよく覚えている。だってテレビでライブ中継していたのをみんな食い入るように見ていた。
鉄球で家を壊したりするシーンは強烈に覚えている。確か警官も犯人に打たれて殉職した人もいたんじゃなかったっけ。けっこう緊迫した攻防がテレビで中継されていた。
1973年 オイルショック
子供だから原油価格の高騰や中東情勢などについては当時はまったくわかってない。ただ、トイレットペーパーが無くなり、みんな血眼になって買い占めていたのは覚えてる。オイルショックとトイレットペーパーはっきりいってなんの因果関係もなく、たんなるデマだったというオチはなんとも情けないなぁ~
1974年 小野田元少尉帰国
このちょっと前にもグアムで横井正一さんが見つかっているが、1974年にはフィリピンのルバング島で終戦後約30年ずっとまだ戦争中と思い戦っていた兵隊が捕まったというニュースは衝撃だった。捕まった時は本当に太平洋戦争の日本兵そのものの姿でタイムマシーンで過去に遡った映像のようだった。今でもYouTubeで見られるよね。
まあ物心ついてからの14歳までの大きなニュースの記憶はこんな感じ。
大学生活(3)
大学でも大勢のローラースケート仲間ができ、楽しい仲良しサークルができたのだが、結果としてすべてぶち壊してしまった。
後楽園の常連仲間とも決別をすることになる。
何があったのか?
当時後楽園ローラースケート場に行くと、普通にカップルとかが手をつないで滑っていたりする中、とびきりうまい「常連」たちが猛スピードでその中をすり抜けてゆく。
しかし、もっとすごい人たちがいた。
競技者の人たちだった。
後に知ったのだが、ローラースケートにも、フィギアスケート、スピードスケート、そしてホッケーの3種目がある。
我々日本人はフィギュアスケートと言えば、それはアイススケートだろ?って思うけど、地球には冬になっても氷ができない暖かい国もある。そういう国ではローラーフィギュアが盛んなんだと。
特にそのローラースケートでフィギュアを練習している選手たちを見てて、自分も同じことをしてみるのだがぜんぜんできない。
もうかなり上達していて自信もあるのだが、フィギュアスケートの技はその程度のレベルではできないのだ。
ジャンプもスピンもステップも、アイススケートよりさらに難しいのだそうだ。
なにせ4輪のタイヤでスピンしなければならないし、ジャンプの着地は4輪同時に着地しなければスリップして転倒してしまう。さらにはシューズの重さがアイススケートの比ではないほど重たい。いろいろハンディは多いがそれでも華麗に滑っている選手たちを見てほんとにすごいと感心したのだ。
内容はすべてよく知っているアイススケートと同じだ。ジャンプの種類もアクセル、ルッツ、サルコー、ループ、トーループとまったくアイススケートと変わらない。
中学高校と真剣に部活でバレーボールをしてきて、やっぱりやるならとことん真剣にやりたい!
ただナンパ目的で滑っている常連たちとも、自分で集めておいてなんだが、だたの仲良しサークルではなく、ローラースケートを極めたくなってしまった。
まずは一人で後楽園クラブというフィギュアスケートのクラブに入会した。
当然オレは最初小さな子供たちと一緒に基礎を習う。コンパルソリーと言って描かれた円を正確に片足でトレース、途中で足を替えたり前進からバックに変更したりしても、その円から脱線しないよう姿勢もふらつかずに滑れるようにならないといけない。
靴もフィギュアスケート用の靴を買った。
大学の仲間には、本気でローラーフィギュアを競技としてしたいので、このままただ滑って楽しむのは各自の自由だが、オレとしては競技志向の部活へと変更したいと申し出た。
結果、女性は全員、男子は数名を残して解散してしまった(;^_^A
大学1年生の秋頃か冬頃だっただろうか・・・・
仲良しサークルはそれで分解バラバラになった。
しかし結果から言えば、その後2年になり新入生が入ってくると後輩も入部し、オレが大学4年生のとき、正式に大学から体育会系部活の認可が下りたのだった。
当時体育会系の部活には4段階のクラスがあり、その最初の研究会という名称ではあったが、一応体育会に属する正式な部活に昇進した。
さらに大学卒業後、20年とか25年後記念式典に呼ばれ、この部を作った初代主将として挨拶する機会まで頂けたことは光栄極まりない。
何十代と後輩が繋ぎ続けてくれたことも感動だった。
そうはいってもフィギュアを目指す人はもういなく、ローラーホッケー部になっていたのだが(笑)
大学生から初心者がフィギュアスケートを目指すのはなかなか難しいからねぇ。
以上、遠い遠い昔40年前を振り返った時の大学時代の思い出でした(笑)
自分で言うのもなんだが、凝りだしたらとことんしたい真面目な性格だと思う(笑)
大学生活(2)
いろいろなことに興味があるし、多少やんちゃっぽいところもある。
でも、基本的に真面目な性格なんじゃないかなぁ・・・と思う(笑)
大学に通いながら毎日後楽園ローラースケート場に通い、「常連」の一人となったオレ。顔なじみの常連仲間もでき、何よりスケートが上達していくことが楽しかった。
ある時、大学でもローラースケート仲間を集めようと思い立った。
ゼミや友だちに話した所、あれよあれよと男女20人以上集まってしまった。
ちょうど当時はローラースケートがブームになっていたこともあり、マイシューズを持って代々木のNHKホール前あたりで缶カラ並べて滑っているような輩も出てきた時代だ。その後スケボーなども流行っていくのだが、その前の時代だ。
オレは大学の仲間と毎週後楽園に行って滑った。
それはそれで楽しかった。練習した後はいつもみんなで食事をした。
なかなか楽しい仲良しサークルの形ができてきた。
しかし、その後オレはせっかく仲良く楽しくやっていたこのサークルをぶっ壊してしまうのである(^^;)
女子は全員、男子は数人を残してすべて去っていってしまった・・・
つづく
大学生活(1)
大学は埼玉県の川越にある大学に通った。
千葉の自宅からは片道2時間以上かけての通学だった。
大学に入学した後も大好きなバレーボールに未練があり、一度仮入部をした。
当然中学高校とバレーを続けてきたわけだし、先輩にもぜひ入れよって強く誘われたのだが、結局やめてしまった。
やっぱり背丈が171㎝ではバレーの選手は厳しい。今のようなリベロなんてシステムは無かったからね(^^;)
何で?と言われても明確な理由もないんだけど、学校の帰りに後楽園のローラースケート場に行った。ローラースケートがそれほど上手というわけではないが、小さい頃に家の前の道路で滑ったり、昔は船橋ヘルスセンターにもローラースケート場があって友だちと行ったこともある。
反時計回りにぐるぐるリンクをただ滑っているだけだが、中には恐ろしく上手な人もいた。あとあとわかるのだが「常連」と言われる人たちだ。
毎日のように滑りに来ていてすごく上手い。みな自分のマイシューズを履いている。
それでオレもしばらく後楽園のローラースケート場に通うようになった。
「常連」の人たちとも顔なじみになり、いろいろな技や道具についても教えてもらった。そしてマイシューズも買った。
もともと勉強はダメだったが、運動神経には自信があった。
毎日滑っているうちにどんどんうまくなっていった。
学校も行きながら、私生活では後楽園に集まる「常連」の一人になっていた。
それほど悪人というほどではないが「常連」=「ごろつき」ってイメージだ。
数か月程度そんな「常連」に交じって滑っていたが、その後思わぬ展開になっていくのだった。