自分ノート

我が人生の回想録。記憶の中から思い出したことを書き残すブログ

すごい数の子供

オレたちの時代は子供がとても多かった。

一クラス45?50?人くらいだったか、だいたい一学年8組か9組くらい。

50人で9組なら一学年450人、1年から6年までで一小学校に2700人になる。

まあ2000人くらいの生徒はいただろう。

 

小学校3年生のとき教室が足りなくなり、急遽オレたちは校庭に建てたプレハブが教室になった。そんな時代だった。

 

小学校3年生くらいだったか・・・・ちょっと記憶があいまいだが、竹の棒がすごく流行った。手にちょうどいい太さで3mくらいの竹をどこからか入手してきて、それぞれいろいろな色のビニールテープを思い思いに巻く。マイ竹棒の出来上がりだ。

ほとんどの男子が竹の棒を持って歩いていた(笑)

 

公園などでその竹の棒を使って地面に落ちないようにして遊ぶのである。

要するに棒高跳びのように。

あまり竹をしならせ過ぎて割れて折れ、背中から落下したこともある(^^;)

 

あと、すごかったのは家の前の道路が舗装された時だった。

引っ越してきたときはまだジャリ道だったが、小学生になった頃、道がすべてきれいに舗装されたのだ。

子供たちは一斉にローラースケートをして遊んだ。それはそれはとんでもない人数の子供たちだった。

当時はタイヤもゴムではなく鉄製で、靴のサイズに合わせて伸ばして紐で靴を固定するようなタイプだったので、すごく音がうるさかった。

あれだけの子供たちが大声を出しながら一斉にガーガー道を走っているのを、当時の大人たちはよく我慢したものだ。今なら5分でクレームになるだろう(笑)

 

今、公園に行っても誰の声もしない・・・・・

時代は変わったんだなぁ・・・・・

小学校入学

小学校に入学。

高根台第二小学校。

 

残念ながら断片的にしか覚えていない。

一年生になってまだ間もない頃、同じクラスのIくんがウンコを漏らした。

ベソかきながら先生に付き添われてトイレにとぼとぼ歩いていく後ろ姿を覚えている。

 

のちに高校生の時、彼がバイク事故で亡くなることになるとは想像すらできないことだ。Iくんのうなだれた後ろ姿はやけに鮮明に覚えている。

 

何年生のいつか?みたいな鮮明な記憶ではないが、小学校低学年の時は学校中でドッジボールが大流行りだった。

 

トラック用の大きく重いタイヤを小高い山から転がし、それを全身でキャッチするというドッジボールの練習?修行?のようなことをした。

とにかく休憩時間や昼休みは大抵ドッジボールをしていた。

 

勉強はそこそこであったが、身体を動かすことは小さい頃から得意な子供だった。

幼稚園

幼稚園の思い出はあまり覚えてない。

小学生になる前の一年だけだった。

もも組~(笑)

毎日通うたびに、桜などのシールを張ってくれるのが嬉しかった(笑)

 

ある日、幼稚園に行く途中で50円玉を拾った。

幼稚園に着いて、真っ先に園長先生に拾った50円を渡した。

 

今思えば純真無垢だねぇ~(笑)

ぱくったりするっていう脳みそは一切なかったんだねぇ~

 

その後、園長先生に呼ばれた。

正直にちゃんと報告してくれて偉いね~

これご褒美にあげる。

園長先生はオレにガムをくれた。

 

後々考えてみたら、ガム・・・・当時50円?くらいだったか・・・(笑)

 

まあそんなことを覚えているくらいだ。

セールスマンごっこ

千葉県に引っ越し幼稚園に入園するまでは、近所で一人で遊んでいることが多かった。

幼稚園は年長一年だけしか行かなかったので、それまでは近所を一人フラフラ遊んでた…(^_^;)

親はオレがどこをフラついて遊んでいるのか知る由もない(笑)

まあ、繋がれてない犬みたいなもんだ。

 

「ピンポーン」

適当な家の玄関で呼び鈴を押す。

「はーい、どちら様ですか?」

オレは答える。

「まいどでーす」

「何かお仕事ありますか〜」

 

ドアを開けると、かわいい(笑)男児が、真面目な顔してセールスマンをしてる(笑)

肩には小さなショルダーバッグ。大人の真似をしてるのだろう(_ _;)

 

まあどこのお宅でも、そうねぇ〜、そこの庭にあるバケツを玄関に入れてちょうだい…などと、仕方ないので適当にどうでもいいような仕事を与えてくれ、お菓子をくれてまたお願いね〜とか言って笑顔で追い返される。

 

近所でも有名なチビッコセールスマンだった。

 

自分の家の並びくらいだったら、相手もオレを知ってるので、相手もしぶしぶ付き合ってくれてるのだろうが、オレの家を知らないもっと遠くまでセールスマンして歩いてるのだからたちが悪い(笑)

 

ある日、知らない家のおじいさんが家に上げてくれ、なぜか一緒にお風呂に入って、ご飯まで食べさせてもらったことがあった(笑)

 

今考えるとかなり変わった子供だったかもしれない(笑)

 

もちろん人の家で知らないおじいさんとお風呂入ったことなど親は知る由もない。

 

 

 

 

千葉に引っ越す

4歳か5歳くらいのとき、両親が千葉に土地を買い戸建を建てた。

東京方面から総武線に乗り、津田沼駅で一度下車し、新京成という私鉄の新津田沼という駅まで約5分くらい歩き、そこから高根木戸という駅で降りて、歩いて10分くらいの住宅地だ。周りは高根公団という大規模な公営団地が広がっていた。

 

当時は高根木戸駅も田舎の駅という感じで、逆V字型の屋根がかかった粗末な駅だった。家の前の道はまだジャリ道で、舗装されるのは小学生になる頃になってからである。

途中で二階建てに増築されたが最初は平屋だった。

 

ここ船橋市の実家が大学卒業するまで住んだ場所だ。

 

上野に住んでいた時の記憶

3~4歳くらいまでは上野に住んでいた。

親が千葉県に戸建を建て引っ越すまでのことだ。

 

父親方は山形県米沢市出身だが、父親は幼年期から東京の練塀町(現在の秋葉原あたり)に育ち、母方はもとは福島県だが母親は神田で育った。二人とも東京育ちだ。

 

そしてオレが生まれ、上野で暮らしていた。

住所は台東区上野7-10

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住所をグーグルで探ってみるとびっくり!

なんと上野駅の目の前だ!

もちろん現在は当時の面影すら残っていないが、ここに母方の祖母の家があった。そこに両親とオレは間借りして住んでいたのだ。

 

家へ繋がるアプローチは1mくらいしかない狭い通路を通って玄関に至る。

木造2階建てだったが、かなり小さい家だったと思う。

 

オレはほぼ毎日、家の前の広い道路にろう石で絵をかいて遊んでいた。

書いている絵はほとんど鉄人28号だったように思う。

週に一度鉄人28号を白黒テレビにかじりついて見ていた。

その光景、雰囲気も鮮明に覚えている。

オープニングのシーンも歌も・・・・

鉄腕アトムも好きだったが、一番好きだったのは鉄人28号だった。

 

 

また、近くにうなぎ屋があり、ガラス越しにウナギをさばいているのを見ることができた。それをじっと見ていたこともよく覚えている。3歳くらいの子供がひとりで歩いて行ける距離だから数10メートルなのか?定かではないが家から結構近い距離だったのだろう。

 

上野駅で汽車を見るのも大好きだった。

いつも上野駅にはたくさんの汽車が煙を吐きながら停車していた。

 

あるとき、父親に煙の出る機関車のおもちゃを買ってもらった記憶がある。

上野動物園でサルが運転する汽車にも乗った記憶がある。

 

 

家の前の道路に絵を書いて遊んでいると、いつも見知らぬおじさんから声をかけられた。荷車を引いてゴミのようなものを乗せている労働者だ。

 

母親は汚い彼らを毛嫌いし、接しないようにとオレに注意するのだが、オレは人懐っこかったみたいだし、彼らもよく可愛がってくれた。

 

ある日、何か欲しいモノあるか?って聞かれたので、鉄の笛って答えた。

上野駅の駅員が持っている銀色に輝く、本物の鉄の笛が欲しかったのだ。

プラスティックのは持っていたが、金属製じゃないと嫌だったwwww

 

何日かして約束通り、おじさんはオレに金属製の笛を持ってきてくれた。

 

 

原因は何だったのか?知らないのだが、ある時病院に連れていかれた。左手首が膿んで腫れていたようで手術するためだ。

無理やり押さえつけられ、何か苦いようなものを口に押し付けられた。

オレは泣いて発狂するように抵抗したが、知らないうちに気を失った。全身麻酔だったようだ。

それ以来病院が大嫌いになり、その前を通る時があると、また病院に連れていかれるんじゃないかと大騒ぎをして、しゃがみこんで絶対病院の前の道に行かないと抵抗した。

今でも左手首に大きな手術痕が残っている。

 

昭和30年代、今とは全然違う風景だったが、人々も笑顔で平和ないい雰囲気だった。

 

終戦から15年しか経っていないというのに、オレの記憶には「戦争」らしいことは一切ない。もう経済成長で大忙しだった時代だったのだろう。

一番古い記憶

時が経つにつれだんだん過去の記憶も薄れゆくものだが、普通はだいたい物心がつく3歳から4歳くらいから記憶があるだろう。

オレもだいたい3歳くらいからの記憶が残っている。

 

ただ一つだけ、赤ちゃんと言ってもいいくらいの記憶がある。

 

親戚のおばさん(どのような親戚かは定かではない)に手渡されて抱っこされたとき、オレは大泣きしたのだ。それだけ覚えている。

 

ちょうどその時に撮られた写真が残っていて、それを見ると完全に赤んぼだ。

 

確かな記憶だが不思議だ。